フィガロヒョコタン

2020年07月14日

似ている人、同じ名前の人

似ている人、同じ名前の人

 

自分はこの世に一人しかいないと思っているから、自分とそっくりな人に出会うと動揺を避けられない。ある時、霞ヶ関で、歩道を渡ろうとして前を見たら、自分とそっくりな人が向こうから歩いてくるのに出くわし、どうして良いかわからないほど、ドギマギしてしまった。

 

その後、その人は、さんという外務省の法規課の職員だということが分かった。1981年にはジュネーヴの国際法委員会 (ILC) の場で一緒に仕事をした。法規課は伝統的に学者との交流を重視し、私も色々な研究会に出させてもらった。研究会後の夕食会で、さんはお酒を、私は飲めないので水を注文するのだが、店の人がよく間違えて、私にはお酒を、さんには水を置いたりした。店の人は「お二人、後ろ姿が、あんまりよく似ているんで」と弁解していた。前だけでなく、うしろも似ているようだった。

 

時々、私は打ち合わせのため、法規課に呼ばれることもあった。法規課という部局は、外務省の中でも研究所のようなところで、普通、課員は本や書類に埋もれて黙々と調査・研究に没頭していて、シーンとしている。さんは当時、首席だった。私が法規課の部屋に入ると顔をあげた課員の一人が突然笑い出す。そして、皆、声を出すまいと苦労しながら、一斉に笑い出すのだ。中には、泣いているかのように、肩を震わせている人もいる。首席の さんと私が似ていることが課内でも話題になっていた証拠である。

 

1991年だったか、国連総会で ILC 委員の選挙があり、法規課長に昇進していた さんが日本の候補者を当選させるため、陣頭指揮をとっていた。私も以前国連事務局に勤めていたことから、手伝いに行った。ある時、すでに ILC 委員として活躍していて再選を狙っているアフリカの候補から「ちょっと折入って相談したいことがあるので、お茶に付き合ってくれないか」と誘われたので、私は軽い気持ちで応じた。国連の前にあるプラザホテルで、「お茶」とはいえ、豪勢なアフタヌーン・ティーであった。しかもなぜか、秘密の逢い引きをするに適したような暗い部屋だった。

 

相談の内容は、ILC 選挙での日本政府の支持要請だった。その話題が出た途端、私は、彼が私のことを さんと間違えているのを悟った。しかし、彼が自分の間違いに気づかないよう、そして彼を失望させないよう、私は、彼に次のように言った。「その趣旨はしっかりと日本政府の責任者に伝えておく。貴殿が当選することは疑いないので、心配する必要はない」と。私は彼に約束した通り、課長に彼の希望を伝えた。彼が ILC 選挙で当選したときは正直なところ安堵した。その後彼は ICJ の裁判官にもなった。

I さんには、1994年 に国際法学会で主宰した3国(日本、米国、カナダ) の国際法学会との合同会議の件でも、大変お世話になった。その開催費用について、大蔵省と協議して財源を確保してくれたり、安倍基金からの財政支援を得るについても側面からサポートして頂いた。京都での学会の折、準備会合を行ったが、「資金難で開催は諦めざるを得ないかも知れない」と私が報告をし始めたちょうどその時、I さんからの「資金の目処がたった」という電話がきたことは、今でも忘れられない。

 

さんはその後も出世街道をまっしぐらで、彼の肩書きは2年ごとに変わっていった。私の方は、助教授から教授に昇格した後は、定年までの30年余、肩書きは不変であった。私は、さんに「さんが大使になって『替玉』が必要になったらいつでもその役を引き受けますから」と言っていた。さんはその後、実際に大使になったが、残念ながら私が替玉になる機会はついに来なかった。

 

名前が同じというのも特異なケースである。私の「村瀬」という苗字で有名な人は殆どいなかった。ところが、ある時、石本泰雄先生から「今日の朝日新聞を見ました。学兄は、小説を書いたりして器用な人とは思っていましたが、芸能関係の記事までお書きになるとは驚きました」というメールが届いた。私は何のことやら見当もつかず、とりあえずその日の朝日新聞を見てみると、確かに芸能欄に「村瀬信也」の署名記事があるではないか。

 

昔はネットで「村瀬信也」を探索すると私のことしか出てこなかったものだが、最近は、朝日新聞文化部の村瀬記者の方がダントツに有名で知名度も高い。将棋の腕前が玄人肌の人のようで、藤井聡太七段の記事は殆ど彼の筆になるものばかりである。私より40歳も若い人のようであるが、一度お目にかかりたいものと願っている。



smurase at 15:21│Comments(0)

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