2020年09月24日

ヒョコタン

ヒョコタン
 

小学校6年生の頃、登校時には、近くに住む久礼君、鉄村君・丹羽君4人で、いつも一緒だった。毎朝、殆ど同じ地点(南山中学のあたり)で、向こうからやって来る、いかにも貧相なおじさんと、すれ違った。ちょっと足が不自由で体を大きく左右に揺らしながら歩くその歩き方が何ともおかしかったので、4人の間では、おじさんのことを「ヒョコタン」と呼んでいた。
 

最初の頃は、おじさんに気づかれないよう、「クスッ」と笑っていた。しかし、毎日会っていると自然に親近感が湧いてくる。おじさんの足が不自由なことも、しいて特別なこととは思わないようになってきた。そして、ある時から僕たち4人は「おはようございます!」と挨拶するようになった。おじさんも「おはよう」と言ってくれた。こうして1年が過ぎた。
 

卒業式の日、先生から「君に会いたいという人が来ている」と告げられ、誰かなと思って学校の(教職員用の)玄関に行くと、そのおじさんがいた。「これ、卒業祝い」と言って、4人に鉛筆をくれた。お礼を言って、私はすぐ教室に戻ったが、後で、「どうして私の名前が分かったのだろう?」と不思議だった。

 そもそも、あのおじさんは誰だったのか、どういう人だったかも分からないままだ。その後はもう道で会うこともなく・・・65年が過ぎた。



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2020年07月14日

似ている人、同じ名前の人

似ている人、同じ名前の人

 

自分はこの世に一人しかいないと思っているから、自分とそっくりな人に出会うと動揺を避けられない。ある時、霞ヶ関で、歩道を渡ろうとして前を見たら、自分とそっくりな人が向こうから歩いてくるのに出くわし、どうして良いかわからないほど、ドギマギしてしまった。

 

その後、その人は、さんという外務省の法規課の職員だということが分かった。1981年にはジュネーヴの国際法委員会 (ILC) の場で一緒に仕事をした。法規課は伝統的に学者との交流を重視し、私も色々な研究会に出させてもらった。研究会後の夕食会で、さんはお酒を、私は飲めないので水を注文するのだが、店の人がよく間違えて、私にはお酒を、さんには水を置いたりした。店の人は「お二人、後ろ姿が、あんまりよく似ているんで」と弁解していた。前だけでなく、うしろも似ているようだった。

 

時々、私は打ち合わせのため、法規課に呼ばれることもあった。法規課という部局は、外務省の中でも研究所のようなところで、普通、課員は本や書類に埋もれて黙々と調査・研究に没頭していて、シーンとしている。さんは当時、首席だった。私が法規課の部屋に入ると顔をあげた課員の一人が突然笑い出す。そして、皆、声を出すまいと苦労しながら、一斉に笑い出すのだ。中には、泣いているかのように、肩を震わせている人もいる。首席の さんと私が似ていることが課内でも話題になっていた証拠である。

 

1991年だったか、国連総会で ILC 委員の選挙があり、法規課長に昇進していた さんが日本の候補者を当選させるため、陣頭指揮をとっていた。私も以前国連事務局に勤めていたことから、手伝いに行った。ある時、すでに ILC 委員として活躍していて再選を狙っているアフリカの候補から「ちょっと折入って相談したいことがあるので、お茶に付き合ってくれないか」と誘われたので、私は軽い気持ちで応じた。国連の前にあるプラザホテルで、「お茶」とはいえ、豪勢なアフタヌーン・ティーであった。しかもなぜか、秘密の逢い引きをするに適したような暗い部屋だった。

 

相談の内容は、ILC 選挙での日本政府の支持要請だった。その話題が出た途端、私は、彼が私のことを さんと間違えているのを悟った。しかし、彼が自分の間違いに気づかないよう、そして彼を失望させないよう、私は、彼に次のように言った。「その趣旨はしっかりと日本政府の責任者に伝えておく。貴殿が当選することは疑いないので、心配する必要はない」と。私は彼に約束した通り、課長に彼の希望を伝えた。彼が ILC 選挙で当選したときは正直なところ安堵した。その後彼は ICJ の裁判官にもなった。

I さんには、1994年 に国際法学会で主宰した3国(日本、米国、カナダ) の国際法学会との合同会議の件でも、大変お世話になった。その開催費用について、大蔵省と協議して財源を確保してくれたり、安倍基金からの財政支援を得るについても側面からサポートして頂いた。京都での学会の折、準備会合を行ったが、「資金難で開催は諦めざるを得ないかも知れない」と私が報告をし始めたちょうどその時、I さんからの「資金の目処がたった」という電話がきたことは、今でも忘れられない。

 

さんはその後も出世街道をまっしぐらで、彼の肩書きは2年ごとに変わっていった。私の方は、助教授から教授に昇格した後は、定年までの30年余、肩書きは不変であった。私は、さんに「さんが大使になって『替玉』が必要になったらいつでもその役を引き受けますから」と言っていた。さんはその後、実際に大使になったが、残念ながら私が替玉になる機会はついに来なかった。

 

名前が同じというのも特異なケースである。私の「村瀬」という苗字で有名な人は殆どいなかった。ところが、ある時、石本泰雄先生から「今日の朝日新聞を見ました。学兄は、小説を書いたりして器用な人とは思っていましたが、芸能関係の記事までお書きになるとは驚きました」というメールが届いた。私は何のことやら見当もつかず、とりあえずその日の朝日新聞を見てみると、確かに芸能欄に「村瀬信也」の署名記事があるではないか。

 

昔はネットで「村瀬信也」を探索すると私のことしか出てこなかったものだが、最近は、朝日新聞文化部の村瀬記者の方がダントツに有名で知名度も高い。将棋の腕前が玄人肌の人のようで、藤井聡太七段の記事は殆ど彼の筆になるものばかりである。私より40歳も若い人のようであるが、一度お目にかかりたいものと願っている。



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2020年07月03日

フィガロ

フィガロ

猫のフィガロは、1996年7月に生まれ、2011年10月に亡くなった。メインクーンという種類で、由緒ある血統書つきの虎猫だった。フィガロという名は、当時5歳の息子が自分の好きだったディズニーのキャラクターから付けた。猫の世話は、大体は私が一人でやっていた。私の外国出張の時は隣の家の人に世話を頼んでいたが、フィガロはどちらも自分の家と思っていたようで、二軒の家を行ったり来たりしていた。

狩が得意で、庭先で何時間もじっと動かず鳩などの野鳥が地面に降りてくるのを待ち、相手が一瞬油断するすきに飛びかかるという戦術だった。狩に成功すると、獲物を家の中にくわえてきて「とったぞ!」と言わんばかりに、得意げに自慢するのである。その後、死骸を見つからないところに隠すので、その処理が大変だった。ある晩、私が一人でテレビを見ていると、ゴミ箱が動いたような気配がして、ゾッとした。ゴミ箱の中では、瀕死のモグラがもがいていた。

2008年ごろだったか、他の猫と喧嘩して怪我をし、体調も悪そうだったので、近くの犬猫病院で診てもらった。獣医大を卒業したばかりの女性の獣医さんが、獣医大で血液検査をしたら、白血病が見つかったとのこと。治療法もなく、あと3ヶ月ももたないでしょうとのことだった。

さすがに可哀想に思い、その晩はスーパーで刺身を買って与えた。フィガロはグルメで、それ以前も乾燥の餌は食べようとせず、缶詰のキャットフードを与えていたのだが、一旦刺身の味を覚えてからは、缶詰も食べなくなった。しかし、まあ、あと数ヶ月で死んでしまうのであれば、ちょっとの贅沢は許されようと考えて、私は毎日のように700円の刺身を買い続けた。私の食費よりも猫の餌代の方が多くなり、私は殆ど破産状態に陥った。

だが、3ヶ月経っても、フィガロは元気で、とても死ぬ気配などない。「お前、まだ死なないのか?」と聞いても、きょとんとしているだけ。さすがに700円の刺身はもう続けられない。スーパーでは、夜遅くなると700円の刺身が400円に値下げされるのを知って、それを買うことにした。

その400円の刺身を猫皿に移してフィガロにやると、匂いをかいだあと「今日の刺身、何かおかしいんじゃない?」とでも言うように私を見上げるのである。「食べろ!」と私が怒鳴ると、猫皿をひっくり返して刺身を床に撒き散らす。まるで、猫の「ちゃぶ台返し」である。

怒って「お前のような自分勝手な猫は、出て行け!」と言うと、猫専用の出入口からプイっと出て行ったきり、2・3日戻って来ない。こちらが心配しているのを見計らって、数日後何事もなかったように、ソファーの上で、大の字になって寝ているのである。

フィガロはその後3年以上も元気に生き続け、結局その間、私は700円の刺身を週に何回かは買う羽目になった。だが最後の1ヶ月は、急に食が細くなり、2011年秋、15歳と3ヶ月で天寿を全うした。人間で言えば、90歳近い年齢だ。思えば、頭の良い猫だった。












 

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